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長岡ゆり Yuri Nagaoka Dance Medium

長岡ゆりと主宰する舞踏カンパニーDance Mediumの紹介とニュース

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Dance Medium 上演作品とコンセプト

 空っぽになった体は表現の海を自由に泳ぐことができる。
 そして空っぽの身体に一つの意志を投入すると、それが波紋となって体から溢れ出す。
 言語になる以前の体の言葉が全身の扉から溢れ出て来る。
 Dance Medium は、2003年、それまで主にソロを中心に活動していた長岡ゆりによって東京で設立。表現者は、自分を表現するのではなく、自分を通して普遍的な存在エネルギーを表現するものであるという考えから、Dance Mediumという名前を採用し、それまでワークショップで育成して来た若手の魅力的なダンサー達と共に、グループ作品ならではのダイナミックで多面的な作品を創っていこうという意図の元に生まれた。
 また、現在日本、海外を問わず舞踏の本質が見失われ、形骸化し、コンテンポラリーダンスとさして変わらないものになりつつある傾向に危機意識を抱く。再び舞踏の持つ大きな可能性を蘇らせたいという願いが底にはある。その為に、舞踏グループ白桃房に10年在籍し、研鑽を積んできて国内外で大きな評価を得ている舞踏家の正朔を招いて、共同で活動している。彼の参加によって、新たな地平が開かれ、作品世界は緻密さを増し、説得力のあるものとなっている。
 我々は、現在日本でありがちな、狭い範囲の個人的な作品、あるいは抽象的すぎて一般の観客にはわかりづらい作品、またはテーマを動きによって説明しているような作品ではなく、観客がその場において無意識のレベルでリアルに身体感覚を共有できるような作品創りを目指している。
 作品のテーマは、ダンサー個人の内面性や、社会現象に対するリアクションというよりは、人間の普遍的問題点に触れた優れた文学作品より想を得る事が多い。文学作品のストーリーをそのままなぞるのではなく、意外性のあるユニークな発想で、いったん解体し、新たな解釈を加えて、再構成している。また、様々なバックグラウンドを持つそれぞれのダンサーの個性を生かしたキャスティング、振付けを心がけて、作品が最大限魅力的になるようにしている。
 そうした長岡の自由な発想による作品創りに加えて、正朔の緻密な空間把握及び知覚認識による基礎指導が、作品に厚みを加えている。
 東京において主に活動しているが、2003年には、パリ、Gdansk(Poland)においても公演し、絶賛される。

これまでの主な作品
”桜の森の満開の下” 2003年初演 2004年、パリ、グダンスクにて再演。

”白痴群” 2005年初演

”The invisible forestー見えない森” 2006年初演 
 その他、夫々のメンバーによるソロ、他ジャンルアーティストとのコラボレーションなどを随時行っている。

●メンバー
長岡ゆり ダンサー 振付家
東京生まれ。
 鍼灸師でありながら作家でもある父の書庫で読書に耽るかたわら、若い頃バレエをやっていた母の勧めで始めたバレエのレッスンに励む少女時代を過ごし、赤い靴を履いた少女として、一生を過ごすであろうと直感する。
 魂と体の関係、生と死、存在の哲学を思索する日々を過ごしているうち、十代後半に舞踏を見て、その文学性と身体哲学、体の圧倒的な存在感、美術や音楽の新しさに興味を持つ。
 その後、自身のバレエ的身体と、舞踏の方法論の間で苦しむが、研鑽を続け、閉塞した日本のダンス界に新風を吹き込むべく作品を創作し、日本はもとよりアメリカ、ヨーロッパ等で作品を発表している。舞台に立っただけで空間が変化し、物語が見えて来るダンサーという評価を得ている。
 また、体と心に対する興味と、病んでいる人々への深い共感から、自らも鍼灸の勉強と研鑽を積み、プロの鍼灸師となり、多くの患者の治療にあたっている。
 2007年公開予定の日仏合作劇映画”朱霊たち”にも準主役で出演しており、演技のジャンルでも新たな地平を見いだした。
正朔
宇田川正治
小玉陽子
亀田欣昌
主な作品紹介


”桜の森の満開の下”


 戦後日本を代表する作家、坂口安吾の同名小説よりインスパイアーされて創作。日本ではこれを元に多くの演劇、映画等が創られているが、舞踏作品としては初めての試みである。
ダンサー:長岡ゆり 正朔 宇田川正治
上演時間:1時間10分
”白痴群”
 
日本文学の中でも特殊な位置を持つ作家、車谷長吉(ちょうきつ)の作品より、インスパイアーされて創った作品。
基本的には読後ほとんどの読者が不快感を持ち、居所のない不安感を持つであろう。しかしそこから人は、自身の内部の闇に入っていくことをいやがおうにも強いられることになる。
 人間の本質的に持つ不安感、嫌悪感、暴力性、悲哀、嫉妬、底意地の悪さ、等に焦点を当て、悪と闇の本質に迫る。そこを通ることでしか光に至れないのではないかという長岡の考えが反映された作品である。 
ダンサー:長岡ゆり 正朔 宇田川正治 小玉陽子
上演時間:1時間
”The invisible forest”——見えない森
 
Dance.Mediumの身体思想が顕著に現れた作品である。コンテンポラリーダンス、舞踏、演劇等のスタイルを自由に縦横に織り交ぜ、ダンサー個人の持ち味を最大限に生かした表現になっているが、体を限界まで統御して扱う事を要請しているので、レベルの高い仕上がりになっている。
 作品は、カルロス・カスタネダの著作から長岡がインスパイアーされて創った。作品の物語は長岡の創作で、観客が幻想の森の中へ迷い込んで旅をし、ダンサーと共に生と死、光と闇、メタモルフォーゼする身体、恐れと歓喜、戦い、祭り等を体験することをテーマとしている。
ダンサーは身体?精神を変容させることによって、空間の変容を観客と共に体験する。
ダンサー:長岡ゆり 正朔 宇田川正治 小玉陽子 亀田欣昌
上演時間:1時間15分

☆Youtubeにて、編集版を見れます。
http://www.youtube.com/watch?v=he_UibKgZqw

その他作品
「A Zocalo-ソカロにて」
「金蘭荘」


Philosophy
☆舞踏について—
—何故舞踏を重要なメソッドとして採用するのか?
 我々は、舞踏の根本概念から離れないように稽古及び作品創りをしている。その根本概念の中で重要なことが二つある。皮膚感覚と、空間の知覚である。
 まず、私達が誰でも共有できる皮膚感覚(痛み、痒み、熱さ等)を具体的なイメージとして体に与えると、その知覚によって体の中に、自我意識によっては認識できないaccidentが起きる。そのaccidentを元に外部の世界が予期せずに次々に流入してくる。例えば、首筋に食いついた虫が一匹二匹と増え続け、気がついたら全身を喰い破っているようなものである。
そうして自己の崩壊、つまり自我意識の崩壊が始まることにより、自己の原始的な生命活動が再構築を始める。そしてその知覚の連続した瞬間を生きることが舞踏であると考える。
 また、周囲の空間を知覚することも重要な要素である。全方位の空間を知覚し、また、その空間に、動き(風、渦、上昇、下降等)また光等の要素を与えることによって、自分が動くのではなく、周囲の空間が動くから自分の体が動く、動かされるという体になってゆく。
 重要なことは、自分が動くのではなく、動かされるという感覚、意識である。動かされているのであるから、自分自身という限界がない。自我を強く持つ事がないから、どんな色にも染まる事ができる。例えば、風に揺れる植物の動きは自由でしなやかである。朝日を浴びて輝く花は色鮮やかである。自由に動く事が自由なのではなく、正確に空間を知覚し限定し続けることによって自由になれるというのは皮肉である。しかしながら、いったん自我意識を捨てて空間に奉仕することが、自由への近道であると考える。
 
☆即興について
 厳密な空間や知覚の限定に加えて、我々は、即興を重視する。長岡の作舞法の一つに、まずダンサーに言葉でイメージを与え、即興で踊ってもらい、そこから要素を抽出、編集するという方法がある。動きには、動き出す前の形にならない衝動、そしてモチベーション、その人個人の体の歴史がある。それらを瞬間的に捉え、動きとして表現することで、それは振付けられた動きよりもリアリティーを持つ事がある。その可能性にかけたいという思いがある。また、個々のダンサーの魅力を最大限に引き出すためにも、そして相互理解とコミュニケーションの為にも効果的である。
 長岡は、長年即興のダンサーとして他ジャンルのアーティストとコラボレーションを行って来た経験があり、実は即興の面白さと危険さを多く知っている。ただ単に好き勝手に踊ったものが観客を喜ばせるものではない。人々の共感を得るには、やはり自我意識を捨てて空間に奉仕するという精神がなくてはならない。そしてそこには、瞬間瞬間に振付けを行っているかのような集中力と、緻密な身体感覚、その瞬間にはそれが絶対的であろうと納得できるような動きが不可欠である。
 そのような即興の中の無意識レベルでの働きに焦点を合わせると、舞踏の方法論に抵触する部分を発見することができる。アプローチは異なっていても、基本的に到達したい所は同じであろうと思う。一つの山の山頂へたどり着く為に異なった道を通っていくようなものであろうと思う。




Dance Medium 舞踏公演「見えない森」

ここには、出現から消滅への時間が流れている。この現世に、『見えない森』が、幻の風景として注入される。浸み込んでいく幻影は、私たちの内奥で溶けていく——。

(此処は何処なのか。此処は其処へ行けないのか。其処は此処と交じり合えないのか。)

イリュージョンとしての森は、私たちのアナザーワールド(もうひとつの世界)であり、すでに壊されてしまった、失われた王国である。『見えない森』は、そうした遺伝子に眠る太古の記憶を呼び覚まそうとし、人間が地上を完全に支配する以前の、神話的世界を掘り起こそうとする。それは、人間が自然に怖れを抱き、世界が内的なヴィジョンとして語られていた時代でもあろう。自然は、現実的には人間の生活を脅かすがゆえに、内的なヴィジョンの中で調和的世界として秩序立てられていた。この作品は、人間と自然の調和的世界——『見えない森』を見ようとすることを問いかけている。

地霊ともいえる男(正朔)が、地響く音の中で揺らめいている。それは、古代の神のようであり、この地上の支配者であるかのようだ。男が眠りについたとき、一人の女(長岡ゆり)が中央に立つ。男神(暗闇)に対する女神(光)であろうか。女のゆっくりとした動作は、指先から森を生み落とすかのような呪術的な舞踏である。やがて辺りに精妙な森が幻出し、舞台は柔らかな光に包まれていく。曲は、ウィリアム・アッカーマンの『Froyd's Gohst』。

そこに白装束の亡霊たち(宇田川正治、小玉陽子、亀田欣昌)がゆっくりと侵入する。すでに彼らは死者であるが、その霊魂は精霊として森に棲みついている。森の女神(長岡)は精霊たちを操り、地霊の男(正朔)を地上の果てに連れて行って、埋葬する。

女神は第一の精霊(小玉)を動かし、両腕を突き出して山猫のようなダンスを踊る。やがて獣と化し、肉を食いちぎり、舐め合い、じゃれ合うようにして、太古の森に遊ぶ。二人が倒れこんでから、小さな第一の精霊は、眠っている第二の精霊(亀田)に近づき、その耳を噛む。

二つの精霊は、お互いの魂を交換し合い、絡み合う。眠りこけた小さな精霊を男が抱き、静かに横たえるシーンは、夢の中の恋を想わせる。

女神が赤い衣裳を着て立ち上がると、キム・デファンの『黒い雨』がかかる。風景は一変して古代アジアの森を出現させる(私はここで、アイヌの森、朝鮮の森を想った)。

女神は古代世界の女王へ変移し(たかのように見える)、第三の精霊(宇田川)を引き起こす。この端正なマスクの白い精霊は、女王に挑発され、蹂躙されながら、恐怖の時間を過ごす。

その屈従に耐えかねたかのように、男は赤い布を引きちぎり、赤い布のダンスを踊る。それは叛乱の踊りであり、恐怖を吹き払うための踊りである。ブライアン・ジョーンズがモロッコで採集した民族音楽『ジャジューカ』が激しくかかり、空間は攪拌されていく。地面を這う第二の精霊(亀田)がこれに絡み、二人は布を奪い合うように激しくもみ合う(エリオット・シャープ/Leap Year)。

喧騒に眠りを妨げられたのか、幾世紀もの眠りから覚めて、地霊の男がゆっくりと立ち上がる。伏魔殿のように背後に立ち、その前で女神と三人の精霊たちが狂おしく踊る。永遠の息を吐き、自らを呪縛する邪悪なる力を解き放つかのように。「見えない森」は、静かにこの世から消え去っていく。

暗転して、舞台はモヌケノカラ。

追記
これまでの男性舞踏が、ともすれば内的な狂気と倒錯を作品化したのに比べると、Dance. Mediumの『見えない森』はきわめて女性的な感性に溢れている。現世の背後にある魔術的神話世界にテーマを求めているので、(見えない)オルタナティブな調和的世界を作品化してもいる。それは、古代世界の風景にもつながろう。長岡ゆりは、その鍼灸師としての経験が関係するのであろうが、ここにセラピー的な舞踏を提示したともいえる。それが、舞踏の始原とまったき別の位相であったとしても、興味深い新しいチャレンジであるように思う。『見えない森』は、Dance. Mediumが舞踏集団として一つの到達点を見せた作品であったと思う。



『長岡ゆりとDance Mediumに捧げる頌歌』
 
 メタモルフォーズする身体
長岡ゆりが追求する舞踏は、器としての身体を道具としながら、個的な身体記憶を集合的無意識の海へ解き放っていく自己変容の技術である。長岡はそれを「伽藍としての身体」「虚空としての身体」、あるいは「メタモルフォーズする身体」と呼ぶ。その身体概念は、個に従属した身体ではなく、「medium(媒介、中心、霊媒)」としての身体、世界に開け放たれようとする身体である。それは、極小のミクロコスモスから極大のマクロコスモスへ貫流し、響き合う、波動する身体である。
身体記憶とは、身体化された記憶、あるいは身体によって呼び覚まされる記憶と考えてよい。舞踏・ダンスは、個的な身体記憶を表現の資源とするが、それが自意識によって制御されたままであれば個的な像をしか結びはしない。そのような媒介性・交流性のない舞踏・ダンスは、ただその人のみを空間に現出させるに過ぎず、空間そのものを変容させることもない。風景が見えない、想像力を喚起することもない。
長岡が主宰する「Dance Medium」は、個を超えていく舞踏を追求し、個的な身体記憶を資源としながらも、他者と響き合うラディカルでニュートラルな身体技法を徹底的に積み重ねていく。それは、身体訓練によってのみ可能な、プロフェッショナルな舞台表現のためのメソッドである。その舞踏は、記号化されたエキゾティックな舞踏スタイルとも異なり、舞踏手の個的な身体から出発する、普遍的な身体の冒険でもある。
従って、長岡ゆりの舞踏は、常にニュートラルな中心を捉えようとする。虚空の中心を探りあてた時、身体は急速に開いていき、世界と共鳴する磁場へ自己を置くことができる。それは静謐なゼロ地点だ。そこから長岡の身体は、変容の兆しを見せ始める。腕を静かに差し出すにせよ、頭を激しく振るにせよ、他者なるものを引き入れながら、自己を空間の中へ溶けこませていく。他者なるものとは、単に演じられる他者ではなく、自己を媒介として生み落とされる他者、影(ドゥーブル)としての他者だ。そこに、風景が出現する。身体が影をまとう瞬間である。
身体のオートマティスムは、やがて世界に折り畳まれた記憶の滝を見せながら、パノラマとしての身体を開示していく。それは、世界を映し込む窓でもあろう。観客は、舞踏手の身体を媒介としながら、自己の記憶をコネクトし、そこにもうひとつの世界を幻視することができる。それは、共鳴磁場としての舞踏空間をめざそうとする試みである。交流する磁場、響き合う空間の中で、舞踏手の身体は世界に明け渡され、エロティックな幻(イリュージョン)が透過していく。
 
 サーカスとしての広場
 長岡ゆりはソリストとして研鑽を重ねながら、2003年に「Dance Medium」というカンパニーを組織し、コレオグラファーとしての自己を探求している。Dance Mediumは、一つのコロシウムであり、一つのサーカスである。もっとも似つかわしいのは、闘牛場のイメージであろうか。円形劇場のような広場で、パフォーマーは自己を曝け出し、自己を生贄とする。現れては消える燭台の炎のように、舞踏手は身体の永久運動を繰り返していく。
 観客が共鳴磁場に自己の記憶をコネクトしうるように、Dance Mediumの舞踏手は、自己の身体記憶を広場へコネクトする。それは、折り重なるイリュージョンであり、サーカスとしての多元的な舞踏空間である。亡霊のように通り過ぎる者がおり、記憶の糸を紡ぐ者がいる。暗闇に潜むヴォータンがおり、小動物のような道化がいる。それぞれはそれぞれへ変移し、双方向の交流の磁場を広場として出現させていく。Dance Mediumは、マジカルな舞踏集団であり、写し絵としての身体の劇場である。『桜の森の満開の下』(2003年)、『白痴群』(2005年)、『The invisible forest——見えない森』(2006年)、『A  ZOCALO——広場にて』(2006年)の作品群によって、今もっとも新しい舞踏世界を切り拓きつつある。
國貞陽一(身体表現批評)
 

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